04.14
書く、が無くなる世界
そう遠くない将来、
文章を書ける人間がいなくなるかもしれない・・・
(妄想)
最近、アメリカの大学の研究で
2種類の表記を持つアルファベット「g」のうち、
片方のgを読めるが「書けない」人が多いというトピックがあった。
※この表示通りの→「g」と、メガネを縦にしたようなループテール型と呼ばれる「g」がある。印刷やオンライン上で使われるらしい。
下図参照。(字が汚くてほんとすみません)
<書ける方のg>

<書けない方のg>

これは、英語圏の人からすると「へ~!たしかに言われてみれば~」という事案なんだろうけど、
日本人にとっては漢字に対してずっと身近に感じてきたことだから、あまり驚きはない。
しかし考えてみると、デジタルデバイスの普及により、
たしかに「読めるけど書けない」は加速している気がする。
小学生のころに、漢字練習ノートに書き写しをして漢字を覚えていなければ
今ごろ、平仮名しか書けなくても不思議ではない。
それだけ書くということは、やらなければ衰えるアウトプットなのだろう。
そんな中、世の中の流れはというと、
文字や文章において、書かなくてもいい方向にシフトしてきている。
AIの台頭により、今後ある程度の文章は書く必要がなくなるだろうし、
より効率化を求めたテクノロジーが利用されることになるのは想像に難くない。
その一方で、
「書けること」に価値を見出せるようになるのでは!?と僕は思っている。
そしてその価値は、今よりも高くなる可能性がある。
なぜなら、文章に感情を乗せることができるのは人間だけだからだ。
どんな時代になろうと、人は感情で動く。
まして、文章で人の感情を動かすことは、人間にしかできないはずだ。
AIにはできない、
人間にしか書けない文章がある。
手書きの手紙なんかもそう。
愛のこもった手書き文字は、その人にしか書けないのだから。
AIの愛には限界があるのだ。
(このブログも実は「書く」ことのトレーニングを兼ねて必死に書いています!愛をこめて)
澤田 知明
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